歴史人物辞典
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山本勘助 戦国
(やまもと かんすけ)
山県昌景 戦国
(やまがた まさかげ)
山上憶良 奈良
(やまのうえおくら)
山内千代戦国 
(やまうち ちよ)


山県有朋 幕末
(やまがた ありとも)
山田顕義 幕末
(やまだ あきよし)
山本権兵衛 明治
(やまもと ごんべえ)
山中鹿之助戦国
(やまなかしかのすけ)


梁川 星巌 幕末
(やながわ せいがん)



湯川秀樹 昭和
(ゆかわひでき)
弓削道鏡 奈良
(ゆげのどうきょう)
結城秀康 戦国
(ゆうき ひでやす)
結城晴朝 戦国
(ゆうき はるとも)



淀 君(茶々) 戦国
(よどぎみ)
与謝野晶子 明治
(よさの あきこ)
吉田兼好 鎌倉
(よしだ けんこう)
吉田松陰 幕末
(よしだ しょういん)



渡辺崋山 幕末
(わたなべ かざん)
渡辺守綱 戦国
(わたなべ もりつな)
脇坂安治 戦国
(わきざか やすはる)










山本勘助  やまもとかんすけ
戦国時代の武将

もともとは今川義元に仕えていたが、あまりのブ男さに義元の京好みの感性と合わず軽く見られていた

ある時、武田信玄のもとへ用事があって出かけたところ、勘助の秘めた賢さに気がついた信玄

「ワシの部下にならんか?」とスカウト

自分の醜さゆえに人から疎まれていた勘助は、信玄に感謝し、以後信玄の軍師として大活躍する
(このあたりは色んな伝説あり)

それからの信玄は快進撃を続け、とうとう宿敵・上杉謙信と川中島にてバトル

この時勘助は「啄木鳥戦法」というマルヒ作戦を決行するも、謙信にバレて失敗

失敗したことがわかった勘助は「全てワシの責任じゃ!死んでお詫びいたす!」と、単独で敵陣に突っ込み死亡した

信玄はそれを聞き涙を流して「あのバカめ!」と怒ったという

ちなみにテストとかでよく使う「ヤマカン」は、優れた軍略家・山本勘助からとったもの「山(やま)本勘(かん)助」


ニックネーム・・・戦国一のブ男

尊敬する人・・・オヤカタ様 「それ以外誰がいます?」

嫌いな物体・・・キツツキ

趣 味・・・軍事シュミレーション

仲良し・・・忍者の方々

歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★★★★★


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山県昌景 やまがた まさかげ 1530年〜1575年
戦国時代の武将 武田二十四将の1人

信玄・勝頼に仕えた武将

兄は赤備えで有名な飯富虎昌

兄が信玄の嫡男・義信の側近で信玄暗殺を企てたため、処刑された

その負い目がバネとなり、兄の赤備えをそのまま譲り受け、以後、目覚ましい活躍をし始めた

武田VS徳川の三方ヶ原の戦いでは、徳川勢の酒井忠次をこてんぱんにうちのめし、家康本陣まで迫った

が、武田家に暗雲が

それが信玄の死

信玄死後、新当主となった勝頼とはウマが合わず、長篠の戦に突入する

ここで織田・徳川の異様な構えをみた昌景や、馬場信春らは勝頼に「今回はなんだか嫌な予感がするから一度甲斐に戻りましょう」と提言するも「臆病ジジーどもめ!」と勝頼にバカにされる

こうして臨んだ長篠の戦

が、織田・徳川の鉄砲隊の前に武田家は壊滅状態となった

それでも山県昌景は何度も陣形を建て直し攻め続けた

もはや自滅するのを覚悟したかのような突進をした

昌景は17箇所も銃弾を受けたが、それでも突撃を繰り返すこと13回

銃弾が右腕を貫通すると、采配を左手に持ちかえ、さらに左手も撃たれると、采配を口にくわえて突撃した

が、とうとう馬が撃たれ落馬

武田の猛将は壮烈な最期を遂げました


外見・・・チビでヤセ 140センチしかなかった

特技・・・声がでかい

自 慢・マイ・赤備え

ショックだったこと・・・兄が信玄様を暗殺しようとしたこと

徳川家康談・・・「こっ殺されるかと思った・・・。おっおそろしかったぁ・・・」

本多忠勝談・・・「もうダメかと思った・・・」

最大の後悔・・・「信玄様が死ぬ前ワシに(瀬田に旗を立てよ)と言って亡くなったんです。琵琶湖畔の京都への入り口に武田の旗をたて、天下に武田の威力を示せということです。それができぬまま討たれるとは・・・。悔しい限りです」

歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★★★★★


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山上憶良 やまのうえおくら 660?〜733?
万葉集に載ってる奈良時代の歌人

遣唐使として唐に行ったこともある人

代表作は「貧窮問答歌」

奈良時代の貧乏な人々の悲しみを詠んだ

が、正直、この人本人はかなりのお金持ち

今で言う国家公務員レベルで、(しかも県知事クラス)貧乏とは縁遠い人だった

ちなみに年収は1500万円ほど

なぜこんなリッチな人が、貧乏人の心を唄えるのかが謎


性 格・・・結構ゴマスリがうまい

ゴマスリソング・・・「わが主の御霊給ひて春さらば 奈良の都に召し上げ給はね」(来年の春は私を都へ呼んでくださいよぅ!よろしくぅ)

歴史メジャー度 ★★

管理人お気に入り度 ★★

キャッチフレーズ 貧乏人のために!!!・・・?


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山内千代
戦国時代の女性 山内一豊の妻

出生は?
どこの出なのかもわかっていないが、とにかく山内一豊と結婚した

気が利く女性で、夫をずっと支えた

あまりメジャーじゃなかったが、戦前戦後の教科書に「内助の功」教育がなされた時、ひっぱりだことなり良妻賢母の代表となる

良妻賢母エピソードは数多い

一豊オンリーで、一豊をたてまくった
一豊があそこまでビックになれたのも千代のおかげでもある


特 技・・・針仕事。特にパッチワーク

著 書・・・夫を出世させる100の方法 「ベストセラーになりましたわ。ホホホ」

著書第二弾・・・夫に勇気を与える100の言葉 

著書第三弾・・・夫をうまく操縦する方程式

織田信長談・・・「あんな素晴らしい馬を買えたとは、山内一豊、気に入ったぞ」

豊臣秀吉談・・・「あんな見事な小袖を作れるとは!!朝廷に献上したぞよ」

徳川家康談・・・「千代殿は関ヶ原の際、大阪の様子を逐一報告してくださった。妻の鏡じゃ」

ダンナより一言・・・「チヨ!ラヴ!」

歴史メジャー度 ★★★★

管理人お気に入り度 ★★★

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山県有朋 やまがた ありとも 1838〜1922

幕末〜明治の人・第九代内閣総理大臣

長州の萩で足軽の子として生まれた

幼い頃から頭が良かったので、高杉晋作とともに久坂玄瑞に紹介してもらって松下村塾へ入ることができた

ケド、先生の吉田松陰が処刑されてしまったので、そのあと高杉晋作が作った奇兵隊に入りだんだん頭角を現すように

明治になると陸軍に入り、のちに「国軍建設の父」と言われるくらい軍を整えまくった

が、残念ながらお金大好きで、黒い噂がいっぱい

そのため明治天皇に嫌われ、大正天皇は人間的に嫌いとまで言ってたらしい

伊藤博文が暗殺されてからは、最高権力者となるが大正九年に起きた「宮中某重大事件」により騒動の責任をとって辞職

でもって、83歳で死ぬも国葬だってのに全然人が集まらなかたt


イメージ・・・汚職しまくり政治家

尊敬する人・・・吉田松陰先生 「六ヶ月しか学べませんでしたが、大変影響を受けました」

大嫌いな人・・・江藤新平 「失脚した時は、ほっとしました」

ラッキーだったこと・・・大村益次郎が死んだこと 「運が向いてきましたな」

お気に入りハウス・・・椿山荘

同郷出身者談・・・「いやぁ、国葬に出たんですが空席だらけで、同郷として恥かしい思いをしました。20日前に行われた大隈重信の国葬は70万人も集まったのに・・・。ほんと、人気がない人なんですね」

原敬談・・・「あいつは異常な勲章好きだったよ。きっと足軽の子だったからそーいったコンプレックスがあったんだろうな」

江藤新平談・・・「あんな汚職まみれの男が上にいる日本など・・・・」」


歴史メジャー度 ★★★★★

管理人お気に入り度 ★★★ 気の毒なくらい人気が無い・・(^^;)

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山田顕義 やまだ あきよし 1844〜1892年

長州藩士の子として生まれ、松下村塾で学び、大村益次郎に気に入られてその下で多くのことを学ぶ

戊辰戦争で大活躍をし、26歳だとうのに箱館戦争では陸海軍参謀をつとめるほど

西南戦争にも参加し、日本の陸軍創成期にめっちゃ活躍した軍人

明治になってからは岩倉使節団に参加し、各国を訪問

でもって帰国後31歳で司法大輔になり、伊藤内閣ができると初代司法大臣に

が、持病のリウマチのため引退

で、幕末の頃に起きた「生野の変」で自刃したイトコの墓参りに行き、その後の視察で立ち寄った生野銀山で倒れ、死んでしまった

あまりの急な死に暗殺されたのではという噂がある


ニックネーム・・・東洋のナポレオン

お気に入りの場所・・・パリ

尊敬する人・・・大村益次郎

苦手な人・・・山県有朋 「なんとなく・・・苦手なんです」

やったこと・・・日本法律学校を作った(今の日本大学)と国学院(今の国学院大学)「ちなみにひ孫は今、日本大学で教授やってます」


歴史メジャー度 ★★

管理人お気に入り度 ★★★ 

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山本権兵衛 やまもと ごんべえ(ごんのひょうえ) 1852〜1933年

明治時代の軍人・海軍大将

薩摩藩で生まれ、12歳の時に薩英戦争に行き、16歳で戊辰戦争に参加

その時、西郷隆盛と知り合い「これからは海軍の時代だぞ」と言われ、興味を持つ

で、勝海舟を紹介してもらい、勝海舟のめっちゃお気に入りになる

40歳で海軍大臣官房主事となり、海軍の改革をはじめ、海軍の地位があがるようがんばった

めっちゃ実力主義で、日露戦争の時は東郷平八郎を強引にプッシュ

大正時代になると内閣総理大臣に上り詰めたが、シーメンス事件によって総辞職となる


お気に入り・・・東郷平八郎「あいつは運がいい男なのだ」

感謝してる人・・・西郷隆盛・勝海舟

よく言われること・・・「日本海軍の父」

いい経験・・・ドイツ軍艦で実習したこと

主義・・・能力第一!「海軍を充実させるには、コネを使わさせません!薩摩出身であろうとも、排除しますぞ!」

むかついたこと・・・シーメンス事件「わしはやっとらんぞー」

びびったこと・・・関東大震災

言いたいこと・・・「海軍ではあれだけ能力を発揮できたのに、政治はうまいこといかんかったな」


歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★★★ 

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山中鹿之助 やまなかしかのすけ ?〜1578年

戦国時代の武将

山中家は尼子家の庶流で、鹿之助は幼い頃から尼子家に仕えていた

16歳の時に「30日以内に戦功をあげたい」とお月様にお願い★でもって、そのお願いは実った

が、尼子家が毛利家に狙われ、とうとう富田月山城が落ちてしまう

鹿之助は「尼子家再興」を目指して着々と準備

でもって、京都で出家していた尼子家ゆかりの子供を還俗させ、立ち上がるんだけど失敗

毛利元就の次男・吉川元春に捕らえられちゃう

元春は「殺すのもったいないな〜」ってことで、鹿之助を家臣にするんだけど、鹿之助の「尼子家再興」の夢は消えてなかった

鹿之助は吉川家を飛び出て、織田信長のもとに行き「一緒に毛利家を倒しましょう」と相談

で、信長の配下になる

鹿之助は豊臣秀吉のもとで上月城にいたんだけど、ここを吉川家に襲われまたも捕らえられる

でもって、護送される途中に斬り殺された


大切なもの・・・「尼子家」

宝物・・・マイ兜

見た目・・・美男子・ひげが立派

三日月へのお願い事・・・願わくば、我に七難八苦を与えたまえ

俺の人生・・・ほんとに七難八苦だらけだったぜ

織田信長談・・・「ぶっちゃけ、最初から捨て駒だし」

吉川元春談・・・「ちぃとばかり殺すのはもったいない奴だったんだがなぁ」

プチ・復讐・・・鹿之助の長男は商売を始め、のちの鴻池家になる。鴻池家は毛利家と一切商売しなかった


歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★★★


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梁川 星巌 やながわ せいがん 1789〜1858年

幕末の詩人

美濃で農業をやっている裕福な郷士の家に生まれた

33歳の時にまたイトコの17歳の紅蘭と結婚

以後、夫婦そろって全国を放浪し、江戸に戻ってから玉池吟社を作る

晩年は京都に住んで詩を作ったりしてるんだけど、裏では吉田松陰や西郷隆盛・梅田雲浜といった倒幕派が集まるアジト化してた

星巌は倒幕の密勅を朝廷に出すよう工作を続けてたのでした

ある日、星巌がコレラにかかってしまう

そして「男子、婦女の手に死なず」とって、紅蘭を別室にいかせ、頼三樹三郎に看病され、正座しながら死んだ

でもって、その3日後に安政の大獄が起きることに

残された紅蘭は星巌の代わりに捕らえられ、半年間獄中に入れられる

ここで精神異常のフリをして、アジトに来た人のことも全然知らないと言い通し、最後は「ハトにえさをあげたい」と言って出獄を許された


仲間談・・・「安政の大獄前に死ぬなんて。ほんと星巌は死(詩)に上手だよな」

趣 味・・・菊と牡丹を作ること

人々の噂・・・「文においては山陽(頼山陽のこと)、詩においては星巌じゃな〜」

自慢・・・「出身地の岐阜県大垣市曽根にワシの記念館があるんじゃ。フフフ」

楽しかったこと・・・紅蘭と全国放浪の旅をしたこと

妻に求めること・・・裁縫が上手になってほしいのじゃ


歴史メジャー度 ★★

管理人お気に入り度 ★★★


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湯川秀樹  ゆかわひでき  1907年〜1981年
東京生まれ

日本の理論物理学者で日本人初のノーベル賞をゲットした人

正直、凡人には「核力」とか「π中間子」とか言われても、何がなんだかさっぱりわからんが、とにかく偉い人

高校の時、数学のテストの答えは全てあってたのに、先生が授業で教えたやり方と違う計算法でやったため「悪い生徒」と言われた

コレに「何でだよ!答えはあってるじゃねーか!納得できねぇよ!」と怒った秀樹は、夢だった数学者をやめることにし、物理学者に変更した

ある意味、物理学方面で成功できたのは先生のおかげかも



好きなこと・・・粒子の研究 中間子の研究

口癖・・・ぼくは言わん「幼い頃から頑固者でしたから」

宝物・・・ノーベル賞の賞状

歴史メジャー度 ★★★★

管理人お気に入り度 ★★


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弓削道鏡  ゆげのどうきょう
奈良時代の天皇になろうとした悪徳法師

出生は??色んなウワサがある

道鏡は761年 時の天皇 孝謙天皇に寵愛を受けまくる

というのも、孝謙天皇は女帝で結婚もできず、ダイスキな恵美押勝ちゃんも構ってくれなくなり病気で寝込んだ

そこへ登場したのが道鏡

かいがいしく孝謙天皇を看病し、なんと怪しげな術を使って孝謙天皇の病気を見事治した

そっからはもー溺愛されまくり

孝謙天皇はいつでもどこでも「道鏡ちゃーん」とメロメロ

焦った元カレの恵美押勝は「あんなヘンな坊主と付き合うのヤメロよ!」と忠告するも、孝謙天皇は「何よ!あんたなんてアタシが病気で苦しんでる時お見舞いにも来てくれなかったじゃないの!どうせアタシのことなんて遊びなんでしょ?アタシが天皇だから優しくしてたんでしょ?」と激怒

とうとう元カレの恵美押勝をやっつけてしまった

こうなると孝謙天皇は「アタシ、子供もいないしぃ。だったら道鏡ちゃんを次の天皇にさせてあげたいナ」と思うように

その頃 宇佐八幡に「道鏡を天皇にしたら国が栄えますよ」というウワサが

孝謙天皇は部下の和気清麻呂(わけのきよまろ)にそのウワサを確かめさせに行ったが、どうやら清麻呂は道鏡が大嫌いだったらしくみんなの前で「宇佐八幡に行ってきましたケド、あのウワサはデタラメです。やはり天皇は血筋からがいいということです」と発表

孝謙天皇&道鏡は大ショック

「あんたさえ変なこと言わなければ!」と和気清麻呂の名前を「わけのきよまろ」から「わけのきたなまろ」というばっちぃ名前に変えた

その後も孝謙天皇はなんとか愛しの道鏡ちゃんを何とかして天皇にできないかしらっ!と考えるも、病気になって死んでしまいました

女帝というバックがいなくなった道鏡は、朝廷を追い出され悲しい晩年となった


ニックネーム・・・生臭坊主

ウワサ・・・巨根 

和気穢麻呂談・・・「冗談じゃないですよ!オレの名前 穢麻呂(きたなまろ)になっちゃったんですヨ!かっこわるいったらないですよ!」

江戸時代の庶民・・・「道鏡?アレですよーアレ。うしし。え?知らないんですか?有名な狂歌ですよ?「道鏡は座ると膝が三つあり」ってヤツですよ。孝謙天皇っつったら今まで男を知らないですからねぇ。うひひ」

歴史メジャー度 ★★★★

管理人お気に入り度 ★★★


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結城秀康 ゆうき ひでやす  1574年〜1607年
戦国時代の武将 徳川家康の次男

秀康は、あの家康の次男に生まれながらも、めちゃ不幸なお人

とゆーのも、生まれが???だから

母親はお万の方といいますが、家康が気まぐれで手をつけた女性
この女性が「妊娠しました」と家康に言ったところ、「ホントにワシの子か?」と疑い、さらには生まれたときの秀康が「ギギ」という魚にそっくりだったため、家康は秀康のことを嫌った

秀吉と家康のケンカ「小牧・長久手の戦い」の時、両家の仲直りのために秀康は豊臣家へ養子に出される。養子っていっても、つまりは人質

ってことで、秀吉のもとで育つが、結城家の人が「うちに跡継ぎがいないんで、誰かください」と秀吉に言ってきた

秀吉は秀康を結城家にあげちゃった

こーして秀康は天下人徳川家康の次男でありながら、関東の一大名でしかない結城家へ養子にいかされる

家康の長男が死んでいるため、本当なら次男の自分が将軍になるはずなのに、なぜか家康は三男の秀忠を江戸城に住まわせ、どーやら秀康を次期将軍にするつもりはなかったらしい

それを知った秀康は、酒と女におぼれはじめ、とうとう梅毒にかかって死んでしまった


言いたいこと・・・俺は次男だぜ?秀忠より年上だぜ?ったく、ナンナンダヨ!!

三男・秀忠談・・・ボク悪くないよ!父上が決めたんだモン!!

息子・松平忠直談・・・秀忠ァ?オレあいつ嫌い!ってかよ、オレんちの方が格上じゃん?

大久保忠隣談・・・絶対秀康様の方が次期将軍になるべきでしたよ!!!

出雲阿国談・・・んー、びっくりしましたぁ。何がって?だってアタシが舞ってたら突然秀康ちゃん泣きだしたんだもん。自分がふがいない〜とか言って。かわいそーよねー

嫌いな人・・・父上・弟の秀忠・本多正信

嫌いな魚・・・ギ ギ

尊敬する人・・・太閤殿

ささやかな抵抗・・・死ぬ前に名前を結城から松平に変えました


歴史メジャー度 ★★★★

管理人お気に入り度 ★★★★


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結城晴朝 ゆうき はるとも 1534〜1614

下総の戦国大名

小山高朝の三男として生まれるが、叔父の結城政勝が跡継ぎがいないため死んだので結城家を継ぐ

関東内のいろんなトコとバトルしてたんだけど、上杉謙信が関東に進出してくると北条家につくんだけど、上杉が関東管領になると上杉につく

そんな中、お父さんが死んでしまいお兄さんの小山秀綱が北条家に降伏するんだけど、その時に「結城家の家督が欲しい」と言ったため、お兄さんとバトルに

跡継ぎがいない晴朝は佐竹義重と手を組んだ

その後豊臣秀吉が天下を取ると小田原攻めに参加して所領安堵される

結城家は養子に迎えた結城秀康の五男・忠直に譲り、81歳まで生きた


泣きたくなったこと・・・家督相続一年後に佐竹氏・小田氏・宇都宮氏が攻めてきたこと

自慢・・・先見の目があること 「関東の武将で一番早く秀吉に従いました★」

ショックな事実・・・結城家が途絶えてしまったこと 「忠直が松平姓に戻されてしまったんですよ」

秘 密・・・家康に奪われないために、金銀財宝を隠しました。場所?教えませんよ。フフフ

老中阿部正弘(幕末の人)談・・・「幕府が大変な時期だったんで、結城城を探しまくったんですがとうとう見つかりませんでした」


歴史メジャー度 ★★

管理人お気に入り度 ★★★


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淀君  よどぎみ
戦国時代のお姫様

近江の大名・浅井長政と、信長の妹・お市の方の長女として生まれる

幼名は「茶々」

が、お父さんが信長を裏切ったため、攻められとうとう落城している小谷城から逃げだす

その後は、お母さんが柴田勝家と結婚したため、北ノ庄城へお引越し

が、義父の柴田勝家が秀吉とケンカをして、とうとう北ノ庄城も落城する。

この時、お母さんが「あなた達だけは生きなさい」と、涙の別れをすることに。

こうして茶々と妹のお初・お江与は両親を殺した秀吉に世話になる。

秀吉にとってお市の方は憧れのマドンナだったので、お市に一番似ている茶々を側室にする

めちゃくちゃ嫌がった茶々だったが、ワガママを何でも聞いてくれるし、お城が欲しいと言ったらポンと作ってくれる秀吉にだんだんなびく

が、どーーしても我慢できないことが。それは秀吉の正室・ねね

秀吉は信長の家来だったので、信長の妹・お市の方の娘・茶々からしてみれば「家臣の妻だった女に、なんでアタシがへいこらしなきゃなんないの?」というもの

さらに茶々が秀吉の子・秀頼を出産

これで大エバリの茶々。ねねに対し「あんたなんて子供も産めないオバさんじゃないの」といった態度がアリアリとなり、ねねはそんな茶々をむかつくように

そうこうしているうちに、秀吉が死に、秀頼が豊臣家の後を継ぐ。こうなったら二代目の母としての茶々の権力は絶大になり、とうとうねねは居城・大阪城を追い出される

そんな頃、秀吉家臣の石田三成と家康がバトル。関ヶ原の合戦に突入する

この時ねねは「ワタシと秀吉で豊臣家を作ってきたけど、もうあんな女のいる豊臣なんてもうどうでもいいわ。」と、加藤清正や福島正則に「家康の味方しなさいよ」とアドバイスをする

こうして関ヶ原は家康が勝利し、豊臣家は所領を減らされる。

が、家康の野望はこっからだった。

自分が元気なうちに豊臣をぶっ潰そうと策略し、大坂の陣に突入する

「大阪城にいれば大丈夫よ。なんてったってこの城は、秀吉が頑張ってビクともしない城にしたんだから」と強気。

大坂方チームには、真田幸村や後藤又兵衛などが味方したが、再三の「秀頼出陣要請」も「何言ってんのよ!あんな危ないとこに秀頼ちゃんを出せるわけないじゃないの!」と激怒

そんな調子だから、大坂チームは家康の謀略によってメタメタに。

最後は秀頼とともに大阪城を脱出し、最後の頼みの綱である「大嫌いな敵方の嫁・千姫」に「アンタ!アタシと秀頼を助けるよう家康にお願いしなさいよ!」というも、失敗

逃げ場がなくなり、とうとう自刃した


好きな人・・・秀頼ちゃん

嫌いな人・・・家康!家康!家康!ねね!ねね!松の丸・片桐勝元・千姫

自 慢・・・母譲りの美貌

家臣談(匿名希望)・・・「淀君様が美人かって・・・?ムムム・・・。ワシの目からみると、どうやらお父上の浅井長政殿に似ている気がしますなぁ・・・。はっ!これはワシが言ったとは言わないで下さいよ!」

大坂兵談・・・「いやー、あの方にはまいりましたよ。大阪城内を鎧を着て闊歩してるんですよ。兵を元気づけるためみたいなんですけどね、逆に萎えましたよ」

歴史メジャー度 ★★★★★

管理人お気に入り度 ★★★


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与謝野晶子 よさのあきこ
明治時代の売れっ子歌人

堺の老舗お菓子屋の三女として生まれた晶子

幼い頃から「源氏物語」などを読む文学少女だった

明治33年によ与謝野鉄幹が東京新詩社を設立し「明星」という雑誌を創刊

晶子は明星に熱心に詩や和歌を投稿していた

そして大坂で講演会を開いていた鉄幹と面会することができた

憧れの人に会えて晶子は大興奮

たちまち晶子は鉄幹のことが大好きに

この時鉄幹は林滝野という女性と離婚したばかり

滝野の実家からかなり援助を受けてたので、鉄幹は風当たりが悪かった

が、晶子はそんな鉄幹でも「愛してるわぁ」と、翌年家を出て同棲生活を始めた

この時晶子23歳 鉄幹は30歳

晶子は実家に絶縁され、父の葬儀にも出させてもらえなかったが、弟だけは理解してくれた

そんな弟が日露戦争に行くことに

晶子は弟のために「君死にたまふことなかれ」を唄い、さらに翌年「みだれ髪」を発表

この作品は話題を呼びまくった

が、子供が11人もいたため相変わらず生活は苦しかった

その後も、晶子はヒット作を出し続け、歌壇の女王となるが、あいかわらず鉄幹はパッとしない

晶子の親友と浮気しそうになったりと、女遊びばかり

さらにはノイローゼにまでなる始末

が、晶子はそんな鉄幹を見捨てず「フランスへ行ってみなさいよ」と留学を勧めた

こうして晶子は鉄幹のために人生をささげまくり、離婚もせず63歳まで生きた


性 格・・・情熱的 

スペシャルライバル・・・平塚らいてう

ノーマルライバル・・・鉄幹にちょっかいを出す女性

鉄幹のこと・・・「あの人、私がいないとダメなの・・・・」

知人たちの噂話A・・・「また鉄幹、浮気してるよ」

知人たちの噂話B・・・「また鉄幹、色目使ってるよ」

知人たちの噂話C・・・「また鉄幹、女にちょっかいかけてるよ」

歴史メジャー度 ★★★★

管理人お気に入り度 ★★★

キャッチフレーズ  明治のワーキングマザー


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吉田兼好 よしだけんこう 1283年〜1350年??

鎌倉・南北朝時代の歌人・随筆家

神社の三男に生まれ、20代の頃に後二条天皇のもとで働いたが、天皇が死ぬと30代で出家した

そして山奥の庵に住み、世捨て人のような毎日を過ごす

でもって、世の中のことをつれづれと語った

こーして出来上がったのが「徒然草」

当時の社会のことを書いてる本なので、資料的にとても役立ってる


好きなタイプ・・・小さな男の子

嫌いな人・・・高師直

言いたいこと・・・「煩悩は捨てなさい」

若い者にヒトコト・・・「囲碁はやっちゃいかん!」

しんみりする時・・・「祭りの後」

オムロン社の人・・・「吉田兼好さんの歌から社名をつけました」

御室(仁和寺のこと)に〜いみじき児のあるけるを〜・・・・の御室(おむろ)=オムロン



歴史メジャー度 ★★★★

管理人お気に入り度 ★★★

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吉田松陰 よしだ しょういん 1830〜1859年

長州藩の萩にある下級武士の家に生まれた

5歳の時に養子となる

幼い頃か優秀で11歳の時に藩主の前で講義を行い、19歳の時に師範として自立する

21歳の時に長崎や江戸に行き、佐久間象山に色々と教わった

24歳の時にペリー率いる黒船軍団がやってくると、松陰は密航を計画★

これは失敗し、牢獄に入れられ、萩で蟄居してなさい!とゆー罪を受けることに

萩に戻った松陰は「松下村塾」をオープン

ここで上士も下士も差別しないとゆー教育を行う

この松下村塾に高杉晋作・伊藤博文・久坂玄瑞・前原一世・桂小五郎・山県有朋といった有名人が数多くやってきた

29歳の時に幕府が天皇の許可を受けずに日米修好条約を締結しちゃうと、それに松陰大激怒!!

幕府の老中を暗殺計画をたてるが、周囲は大反対

計画は中止になるんだけど、だんだん弟子達の心が離れていく

こうして暴走しまくってしまった松陰でしたが、幕府から危険視されてしまい安政の大獄で捕らえられてしまう

そして30歳で処刑されてしまった



松下村塾のポリシー・・・生きた学問を教えること

マイ・ポリシー・・・草莽崛起(そうもうくっき・名もなき下級武士や農民たちが頑張って立ち上がる!という意味)

辛かったこと・・・禁煙

お気に入りの弟子・・・久坂玄瑞

許せない人・・・大老・井伊直弼

気になる人・・・野山獄で知り合った女性囚人

黒船乗船員談・・・「アレニハビックリシタネ!暗闇ノ中、ミシシッピ号ノ近クニ2人ノ日本人ガイテ、船ニ乗ロウトシテルンデスヨ!!。ペリー提督モアレニハ驚イテマシタヨ!」

師・佐久間象山談・・・「小林虎三郎と松陰はよきライバル同士であったなぁ」

弟子・高杉晋作談・・・「最後の方の先生はちょっと狂気じみてたんですケド、それでもやはり素晴らしい師でした」

最後のお言葉・・・身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂



歴史メジャー度 ★★★★

管理人お気に入り度 ★★★★

キャッチフレーズ・・・幕末のスクールウォーズ

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渡辺崋山 わたなべ かざん 1793年〜1841年

幕末の人

三河田藩の家老

外国船打払令など、幕府がいつまでも外国に対してそのよーな態度をとっているのに対し、「日本はこのままじゃいかん!!」と、仲間とともに「蛮社(ばんしゃ)」というチームを作った

そして本を書いて、日本の危険性を世の中に広めた

これをみた幕府が「こんな本を書くなんて!!」と、危険人物扱いし、チーム全員をひっとらえた

これが有名な「蛮社の獄」

崋山はこの後、蟄居となったが藩主に迷惑がかかってしまうと自刃した



ラストワード・・・「不忠不考渡辺登」

嫌いな人・・・鳥居耀蔵 「あいつは妖怪じゃ!!」

特 技・・・絵を書くこと

好 物・・・醤油をたっぷりつけた焼きおにぎり

家族より・・・「夜が明けたことに気がつかずに勉強してるんです。体壊しそうですわ」

言いたいこと・・・「幕府は世界情勢がわかっとらん!!グローバルにならんといかん!!」


歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★★★

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渡辺守綱 わたなべ もりつな 1542〜1620

戦国時代の武将

渡辺家とゆーのは、松平家の譜代家臣

守綱は徳川家康と同い年なので、小さい頃から家康に仕えた

でも、めちゃくちゃ熱心な一向宗徒なので、三河一向一揆のときに家康に背いた

一向一揆は家康によって抑えられたんだけど、守綱は反逆したことを許される

その後は家康の下で主要な戦いのほとんどで戦功を重ねていく

関ヶ原の合戦にも参加し、高齢になってからは家康の9男・徳川義直が尾張藩主になると、義直つきの家老になった

そして義直のことを補佐し、79歳で死去


ニックネーム・・・槍の半蔵

特 技・・・槍使い

曲げられないもの・・・信仰心

参加した合戦・・・三方ガ原の戦い・小牧・長久手の戦い・長篠の戦(山本勘助の息子を討ち取った)など

老後の楽しみ・・・藩主・義直の成長 「大阪夏の陣で初陣にたったときは感動しました」

自 慢・・・徳川十六神将になったこと



歴史メジャー度 ★★

管理人お気に入り度 ★★★★ 「長年仕えてる割にはあんまり知行とかないんだよね」


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脇坂安治 わきざか やすはる 1554〜1626

戦国時代の武将

近江出身で、浅井長政に仕えてたけど滅亡したため、織田家に仕える

ここで明智光秀の与力となり、活躍

光秀が死ぬと、秀吉に売り込み家臣になることに成功

秀吉のもとで武功を重ね、賤ヶ岳の戦いでは加藤清正は福島正則とともに賤ヶ岳の七本槍の一人になる

その後は九鬼嘉隆らと水軍を任され活躍

秀吉が死ぬと家康の味方につき、関ヶ原の戦いでは西軍として参加するも小早川秀秋が寝返るとすぐさま便乗し、大谷吉継隊を壊滅させる

そして家康に所領を加増してもらい、息子に家督を譲って隠居した


言いたいこと・・・「七本槍の一人なのに、なんか地味なんすよね」

自 慢・・・秀吉様から戴いた輪違い紋 「うちの家紋にしちゃいました♪」

嫌だった戦い・・・朝鮮出兵

同僚A談・・・「あいつって、なんかちゃっかりしてねぇ?」

同僚B談・・・「あいつって、結構したたかなヤツなんだよね」

心苦しかったこと・・・関ヶ原の戦い「さすがに味方の大谷隊を裏切った瞬間はイヤでしたね。ま、生き残るためには仕方のないことですけどね」

嫌いな人・・・石田三成

マイ・ライバル・・・赤井直正


歴史メジャー度 ★★

管理人お気に入り度 ★


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